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眥を決す

詩以外の言葉で説明可能なことを、詩にしてみたところで何の意味があるだろう。Kさんから貰った地方新聞に一篇の詩が載っていた。経験者か、初心者かは読めばわかった。ずぶの素人ではないようだ。だが肝心なことがわかっていない。一連、二連、三連、四連は最後の結論に導くための説明にすぎない。いきなり最後の五連の最初の三行だけ読むと、凝縮された言葉で非常にいいが、直前の連で紫の正体を説明して一切が台なし。折角の言葉が生きず、うわべを飾っただけの、深みも余情も含蓄もない、甘いだけの詩になっている。

春は生命が幸せを謳歌しているだけの季節ではない。その影でこわれてゆくものもあることを見過ごしてはならない。

春というと、誰もが命のきらめきを詠いたがる。だが、T.S.エリオットは「荒地」という詩の「?埋葬」の章でこう詠んだ。

  四月は残酷極まる月だ

彼に残酷という言葉を遣わせたのは、花が散って悲しいとか、そんな陳腐な理由ではない。詩を書く人間なら考えるべきだと思う。能天気に命を謳歌していれば済むのであれば、どんなつらい時でも笑っていればいい。

私は真昼の闇を詠んだ。判らぬ人はある意味不幸だろう。昼があれば夜があり、光があれば影が生まれることを知らずに死ぬのだ。

  つゆ草の周りに

  やみが 見える

  夜はかろうじて

  ひかっているが

  昼というものは

  やみでしかない

          (「つゆ草」)

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